「死ねばいいのに」 京極夏彦 著
1人の女性が何者かに殺害された。
それからしばらくして、生前の彼女と関わりのあった人物たちの元に、彼女の知り合いだと言う若い男が訪ねて来る。
「アサミのことを教えてくれ」と。
その男、ケンヤは言葉遣いは汚いし、礼儀も常識も知らないし、どこからどう見てもチャランポラン。
まぁ、わりとどこにでも居そうな今時の若者と言えなくもない。
対する、ケンヤが接触する人物たちは、揃いも揃ってことごとくダメ人間。
上手く行かないのは全部他人や社会のせいにする。
文句を言うばっかりで何もしない。
屁理屈をこねて自分を正当化するのは大得意。
醜い。
ムカついてぶん殴りたくなるような人たち。
彼らと言葉を交わし、ケンヤはその醜さを暴き出して行く。
本人にそのつもりは無いのだけれど。
暴き出された方は狼狽える。
どう頑張っても自分より馬鹿に見えていた若造に、ものの見事に看破されてしまったことに愕然とする。
読み進めるうちに、「自分は馬鹿だ」と何度も繰り返すケンヤが、実は誰よりも聡いのではないかと思ってしまう。
けれど、そうではないのだ。
ケンヤは、ごく単純に物事を見ているだけ。
知識だの常識だのプライドだの世間体だの、ケンヤは余計なものを一切理解しない。
理解しようともせずに、ただスルーする。
ちゃんと理解したうえで本質を見抜くのであれば賢いが、理解していないケンヤは賢いとは言えない。
でも、そんな彼だからこそ、余計なものをグルグルと巻き付けて作り上げた繭を切り開き、その中に縮こまってる小汚い芯を雑作も無く取り出すことが出来る。
そして、彼らに向かって
「死ねばいいのに」
と、言い放つ。
でも、誰1人、死なない。
それでいいのだ。
ケンヤが訪ねて行く5人の人物は、かなり誇張されてはいるものの、ごく普通の人たちなのだ。
言い訳じみた彼らの言葉に、多かれ少なかれ、誰にも思い当たる節があるのではないか?
だからといって、恥じることは無い。
誰もが心の中に、醜いものの1つや2つ抱えている。
そういう自分を受け入れて妥協するか、目をそらしてそんな自分は居なかったことにする。
そうしなければ、生きて行けないから。
彼らの醜さは、生き延びるための無様な足掻きなのだ。
だから、「死ねばいいのに」と言われて、「はい、そうですね」と死ぬことなどあり得ない。
それでいいのだ。
どうやってでも、生き延びようとするのだ。
普通の人間は。
「そんなにイヤなら死んでしまえばいい」などという発想は、命あるものとして異常なのだ。
狂気はケンヤの側にある。
そして、最後に、本当の「人でなし」が誰であるのか、思い知らされることになる。
その事実を目の当たりにした時、私は恐怖を感じると共に、とてもとても悲しかった。
その人が人でない者になったのは、いったい何時のことだろう?
最初からそうだったのだろうか?
それとも、生き延びるために、人でない者へと変わっていったのだろうか?
確かめる術は無い。
この小説は、犯人探しのミステリーではない。
敢えて分類するとすれば、サイコホラーの括りにでも入れるのが妥当ではないかと思う。
タイトルからして眉をひそめたくなるし、好感の持てるキャラなど1人も登場しない。
おまけに、救いようの無い結末が待っている。
人によっては、嫌悪感しか抱けないかもしれない。
それでも、私は、この小説が嫌いじゃない。
それほどたくさん京極さんの本を読んではいないけれど、実に京極さんらしい作品なのではないかな?と思った。
誰が狂人で誰がマトモなのか混乱して来てしまうあたりや、精神的にゾクゾクッと来る感じとか。
万人にオススメとは言わないけれど、「今更、ちょっとくらい人間の醜さを見せつけられても平気、ヘッチャラ!」な人は、ぜひどうぞ。
面白いよ。
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