今日は、ちょっと固いこと書くよ。
「死刑」の是非はともかく、弁護団の奇天烈な主張が受け入れられなかったのには、ホッとした。
光市の母子殺害事件の差し戻し控訴審で、元少年に極刑が言い渡されたとのニュースを見ての、私の率直な感想がそれだった。
判決後の記者会見で「この判決によってあなたは癒されるのか?」などと馬鹿げた質問をしている記者がいた。
いったい、どんな答えを引き出そうとしてこんな質問をしたのか知らないが・・・
癒されるわけなど、無いではないか。
彼は自分が戦うことで、たとえ自分の大切な人を奪って行った相手とはいえ、1人の人間を死に追いやったのだ。
その重荷は、生涯、背負って行かなければならない。
そんなことは、御本人は百も承知のはず。
それでも戦わなければならない理由が、彼にはあったのだと思う。
それは、決して復讐などではなかった、と、私は信じたい。
「死刑」は「復讐」でも「償い」でも「罰」でもない。
凶悪な事件を起こし、再び同様の事件を引き起こす恐れのある人間を世に放たないための「措置」であるべきだと、私は考えている。
だから、いかなる理由によっても期間の短縮を認めない「終身刑」があれば、死刑は無くてもよいと思っている。
ただ、今のこの国には「終身刑」はなく、あるのは「無期懲役」
これは、「期間を定めない」のであって、「死ぬまで出て来るな」というものではない。
そのため、「死刑」を容認せざるを得ない、というのが今の私のスタンスなのだ。
だって・・・
加害者が死んだからと言って、誰が救われる?
命をもって償うことなど、できはしない。
人の命を奪うだけでなく、その家族、自分自身の身の回りの人たちの人生を狂わせ、生涯消えることの無い傷を負わせた、その罪はあまりにも重い。
そんな罪を償えるなどと考えるのは、傲慢な思い込みに過ぎない。
それによって救われるものが居るとすれば、それは受刑者ただ1人だろう。
少なくとも、本人は死んでしまえば全て終わる。
でも残された者達にとっては、それが1つの区切りにはなるかもしれないが、その苦しみはその後も延々と続く。
それでは、あまりに不公平ではないか。
だったら、自由を奪われた牢獄の中で、罪の意識に苛まれながら、出来る限りの償いをさせ、命の尽きるまで苦しみ続けさせた方がいいと思うのだ。
今回の判決は、過去の例と比べても極めて重く厳しいものであり、今後の裁判のあり方にも影響を与える一例となるだろうと言われている。
1年後には、裁判員制度がスタートする。
この光市のような事件は、間違いなくこの制度が適用されるケースになるだろう。
何かと問題のある裁判員制度。
いったい、どうしてこんな制度を取り入れることにしたのか疑問に思っていたのだけれど・・・
判例に疎い一般市民が裁判に参加することで、判例重視の現在の裁判のあり方から、過去の事例にとらわれず個々の事件を絶対的に判定する方向へと流れを変える、1つのきっかけにはなるかもしれない。

















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